山形大学拳友会副会長 飛鳥宗一郎
はじめに 昨年10月30日、全日本空手道連盟和道会(以下、「和道会」と記す)の総会において第七代会長に就任しました。昭和24年(1949年。以下、生没年以外は元号で表記する)から組織的な活動を開始した和道会の歴代会長を務められたのは、坊 秀男、橋本龍太郎、江里口栄一、近藤與士人、小倉 基、龍野順久の各氏であります。就任5日後が、私86歳の誕生日でした。 私は、昭和10年に山形県最上郡最上町で出生し、太平洋戦争の最中に育ち、小学一年生のときには強風下で400軒を焼き尽くす大火で家が類焼し、戦中戦後の窮乏を味わいました。 |
![]() 【飛鳥宗一郎氏近影】 |
1 空手道との出会い 中学校は野球部、新庄北高校では柔道部でした。高校三年の一学期終業式の日でした。『これから拓殖大学空手部による空手の実演が体操場で行われます。本校のOBもいますから、希望者は残り見学してください』と校内放送があった。興味津々、体操場は大勢の男女生徒で埋まる中、裂帛の気合とともに繰り出す未知の武道技に驚愕し魅了され、一つの演技が終るごとに拍手鳴りやみませんでした。若きOBの金澤弘和(国際松濤館流宗家)、庄司 寛(日本空手協会主席師範)の各氏が学生とともに参加していたのは後に知るわけですが、出会いから超一流の空手を観覧したことになります。 帰宅したその晩から教わったことを頭に描き、自宅庭でやみ雲に真似事を開始しました。巻藁は電信柱に縄を巻き付けて代用して正拳突きや手刀打ちを行い、拳を血まみれにして悦に入っていたのです。 2 山形大学時代 拓殖大には行かずに、昭和29年4月山形大学に入学し、直ぐ空手部(当時は空手道といわなかった)に入部したが、同期に安孫子 孝、梶山紀行、安藤忠夫、菅原純一、井上俊夫他の各人がいて、部活動は以前に増して活況を呈したようです。しかし部に指導者はなく奥山守正、武田恒哉両先輩のアドバイスによって活動が維持され、和道流を名乗っていました。 拓殖大の空手演武が印象に残る私にすれば、いささか不満を残しつつ一年が過ぎようとする期末休み中でした。神奈川大学に進学している高校の先輩から、『山形大で空手をやっているそうで、空手部に知り合いがいるから、交流できないか頼んであげようか』と声を掛けられ、私は『先輩に相談してみる』と答えたがそのままになっていた。ところが、これが切っ掛けになり神奈川大空手部から手紙が届き、5月の合宿練習に同大空手部から吉岡主将と小林副将が来部しました。教わって思ったことは、当部は和道流といいながら本流と多少違っていたことです。だが部員一同は乾いた砂が水を吸うがごとく新しい技を吸収していったのです。 終って、『山形大空手部が熱心に活動し、指導者を求めている』と神奈川大から和道会本部に通報され、夏合宿には本部事務局長の石塚 彰四段(東大卒、後八段)の指導が実現したのです。石塚氏の指導成果をもって、同年11月に同期の安孫子孝、梶山紀之両氏と三人で上京し、神奈川大道場での事前練習で初めて大塚博紀最高師範(1892〜1982年。以下、「大塚師範」と記す)の指導を受けて昇段審査会に臨み、三名ともに東北初となる初段合格者になりました。 次年6月には、大塚師範最初の山大空手部への来部指導が実現し、更に翌年3月の合宿練習で再度の来部があって、最終日には、上山小学校で教職員と全校生徒を前に演武会を開催しました。その際、大塚師範の護身術講習や石塚氏を相手にした「真剣白刃捕」が行われました。私たちも初めて拝見する師範の演武でしたが、小学生などを前に、武道振興と空手普及のため惜しみなく武の神技をご披露されるお姿に感激しました。 三年次の途中、私は父の勧めで国家公務員採用試験(郵政職中級)を受験し、翌年4月から仙台郵政研修所幹部養成科に一年の研修辞令が出たため、翌年4月から休学して入所することになりました。 我が家は郷里で代々特定郵便局長を受け継いでおり、長男の私にそれを期待しながらも「空手馬鹿」「空手気違い」になってしまった私に危惧の念を抱いたのが理由のようでした。 昭和32年11月、「第一回全日本学生空手選手権大会」(団体戦)の開催の通知を受け、休学中の私を含めて出場することになった。一回戦の対戦相手は神戸商船大学で、この試合は私の反則負けが足を引っ張る結果となり1対2、2引き分けで敗戦しました。自分たちだけでの組手練習、試合規定にも精通せず、実戦のアドバイス一つ受ける機会がなかった私たちの、これが公式試合の最初でした。 同期の皆が卒業を迎え、それぞれ希望した職場に就職しました。私は一年間の研修が終わり、大学最寄りの山形地方貯金局(郵政本省直轄機関、職員定数360名)勤務を希望して赴任した。しかし、職を持ちつつ卒業まで漕ぎつけるのはよほど根性がない限り至難の業で、六年間在学の後に退学しました。 |
心に残った事柄や出来事は沢山あるが、ここでは行動の折々に影響を受け、何かの区切りになったことのみ掲出してみた。こうして書いてみると、鬼籍に入られた方も多数おられ寂しい限りである。 (1)〔鳥海月山両所宮奉納演武〕(昭33年8月。 23歳)「はじめに」のところで、父が空手の話を聞いた人、尾形九段について記した。山形市に赴任した年の7月、尾形九段の使者がきて、『鳥海月山両所宮大例祭で、空手の奉納演武をしてほしい』と依頼があった。8月1日だったその日、部員の石垣功さん(昭和32年教)を伴って出向き、形セイシャンを独演、続いて石垣さんを相手に和道流「短刀捕」」5本を演じた。その2本目のところで石垣さんの手元を離れた短刀が太腿部に直下し、鮮血で下衣を染めたまま続行、大勢の参拝者から驚きの大拍手を貰った。奉納納めは尾形九段と門下による「講道館古式の形」であった。終わって尾形九段から、『大変身ごなしがいい。一心不乱稽古に励まれ、立派な空手家になってください』とお言葉を頂戴した。時が過ぎた昭和45年春のこと、尾形九段の著書「斃れて止まず」が「贈呈・飛鳥宗一郎君へ。拙著ですが参考になるでしょうか。御笑覧くだされば幸いです」の手紙とともに送られてきた。柔道レジェンド尾形九段とは、空手のことを知った話にはじまる三度の縁を感じ、以後大いなる励みとなったのは間違いない。 |
![]() 【尾形九段の著書】 |
(2)〔第一回東北学生選手権大会〕(昭36年6月。25歳)仙台市レジャーセンターで団体戦が開催され、関東学連から招聘した審判員に拓大OBの庄司 寛氏がいた。『あのとき新庄の高校生だった飛鳥です。拓大に行けなかったが、空手やっています』と名乗り、往時を語り激励を受けた。金澤氏との対面はその3年後であった。この大会で山大は3位入賞だった。 (3)〔山形県空手道連盟の結成〕(昭40年11月。29歳)11月12日県内8団体から10名の代表者が集まり、県空手道協会(後に連盟と改称)が発足したが、会長は決まらず副会長3名、私が理事長、同期の安藤忠夫さんが副理事長であった。県連盟における活動は、私にとって拳友会ともにもう一つの足場となった。11月末、私は当時の最高段位五段に昇段した。それから57年の歳月、想いは多い。 (4)〔東北学連審判部長就任〕(昭44年7月。33歳)東北学連の結成総会で、私が初代審判部長に選任され、競技現場における責任者として責務の重大さ自覚しつつ、審判技術の研鑽と競技運営に努めた。決意は、「他の模範たらんことを期す」だった。平成14年まで33年間この職を務めた。 (5)〔第一回世界大会出場〕(昭45年10月。34歳)7月に国内20名の審判員を選ぶのに、135名が参加した。私は幸運にも合格が決まったので、それなら山大から選手を出したい思いから、東北学生大会優勝者の手塚 庸さん(昭42年教)に期待しともに練習を開始。手塚さんも団体戦選手に選ばれ、師弟同時出場となった。この大会出場は、それまで東北だけの活動だった私にとって、先生方や先輩の多くと面識を得たのが財産となり、以降の活動に幸いした。 |
![]() 【第1回世界空手道大会 プログラム】 |
2年後のこと、全空連の江里口栄一専務理事から『フランス・パリで開催される第二回大会に審判員兼総務委員として派遣したい』と電話あったが、子育て最中の経済的な状況や休暇取得の事情から断念した。更に2年が過ぎて、アメリカロングビーチの第三回大会時も同様の要請を受けながら同じく辞退した。後年になって、無理しても応じていたら後の空手道人生が違っていたかと悔やんだが、その考えは誤りで、これも私の運命であった。 (6)〔崇武館空手道場の設立〕(昭46年9月。35歳)自宅新築に際し4間×5間半の道場を併設し、「空手道飛鳥道場」として発足(「崇武館」と変えたのは2年後)し、東北初の空手専用道場だった。時まさにカンフー映画ブームの最中で、入会者頻りであった。部活終了後の山大部員も訪れ、医学部空手道部の発足もあった。昨年9月をもって創立50周年を迎えたが、コロナ禍のため記念行事等は断念した。道場を持って益するところは一々記さないが、各種大会で優勝、入賞者を輩出できた嬉さも数えきれない。入会届書は全て残っており、50年間で接した人は千人に近いと思う。 (7)〔第一回日本武道祭〕(昭47年11月。37歳)武道九種目により三日間、日本武道館を会場に開催された。空手道組手試合の審判員として参加したが、IDカードのお陰で自由にアリーナ内を移動でき、超一流の武技を直に観覧しとても勉強になった。二日目昼前のこと、大塚師範が呼んでいると使いの者がきて、私は役員控室に参上した。居合わせた各界のお歴々だが、そのご容貌たるや今まさに山際を離れた旭日の如くに見えた。それは武道家究極の容姿、目指すべきお手本と思った。しかし残念ながら、未だ大先生方に遠く及ばないのが本音である。武道祭に浅利孝一さん(昭44年工)が出場、終わって林 義光さん(昭37年工)の結婚式出席のため学士会館に直行した。 (8)〔第十六回全日本学生大会〕(昭47年11月。37歳)大阪府で開催され、我が部は準々決勝まで進出したが広島大に1対2で敗れ、ベスト8に止まり残念至極であった。敗因は、対戦相手の試合を観戦して勝てると思った私にあって、選手にも言わず語らず雰囲気が伝わり全てが甘くなった。試合とは、実力以外の些細な心理状態が大勢を変えてしまう恐ろしさがある。 |
(9)〔大塚博紀最高師範の死去〕(昭57年1月。46歳)亡くなられる前年の8月、大塚師範からハガキが届き、「秋頃、北海道、東北指導の帰途にお邪魔したいと考えている」と記されていた。「是非お出でください。温泉にお宿を取ってお待ちしています」と返信したが、その後は一向に無音だったため11月になってお電話したところ、『父は床に就く日が多くなった』とご子息の話であった。翌年1月29日に逝去されたと知らせがあって、2月初め東京都立青山葬儀所のご葬儀に参列した。享年91歳、89年7か月のご生涯であった。大塚師範は晩年、和道会との間に齟齬をきたし、これが基で高弟何人かを破門するという事象があった。心残りであっただろうと思う。 |
![]() 【大塚博紀最高師範最後の葉書】 |
(10)〔中央技術本部発足〕(昭57年4月。46歳)大塚師範が死亡され和道会は技術の芯柱を失い必然的に集団指導体制に移行し、4月に「中央技術本部」を発足させ、私も本部員の一人に指名を受けた。何回かの研修会や会合を経て、自らの技法の不備を正すに有意義であった。その会議の中で、五段までだった実技審査を八段まで行うと決め、本部員は進んで受審しようと互いに約した。 (11)〔実技八段合格〕(昭59年3月。48歳)最初の高段者審査日程が発表されたのは前年の12月で、早速崇武館師範代の横山 弘五段に受審を勧めた。横山さんは高校生時代に山大空手道部で練習を許可された経歴を持つ。以来3月の審査会までの3か月間、二人だけの練習に没頭し、時には深夜に及ぶことさえあった。3月13日の審査会では、私と横山さんだけが合格者で、私は和道会八段、横山さん六段とそれぞれ実技合格者第一号となり、八段位48歳4か月は四大流派中の最年少記録である。 (12)〔べにばな国体開催〕(平4年10月。56歳)内定から10年の準備期間があって、私は県連盟理事長・対策本部長として使命感を抱きつつ行動したが、空手道部同期の安藤忠夫さんをはじめ多くの方からご温情をいただき任務に当たった。お蔭をもって、県内最高の体育館を会場に、国体空手道競技史上唯一無二となる天皇皇后両陛下の御高覧を仰ぐ光栄に浴した。成績結果は、九種目中五種目に優勝し、新記録得点で総合優勝を達成した。対策に全力を傾注した関係各位とともに、苦労が報われ幸いに思った。 (13)〔退職後のウエート・トレニング〕(平7年3月。59歳)定年まで1年を残し郵政職員を退職した。「べにばな国体」時に講師について体力強化など学んだのを思い起こし、道場に器具用具を入れた。楽しみが一つ増えた思いで取り組み、最大でスクワット120s、ベンチプレス100sまで可能になった。その後、硬膜下血腫を患って休み、多忙を理由にサボったため今は半分程度に低下している。しかし、適宜適切な身体トレーニングは有効なので細々ながら継続している。 (14)〔拳友会50年の歩みの編集〕(平11年6月。64歳)山形大学空手部の創設は、先輩方の証言から昭和24年6月と判明した。創立50年を前にした総会で「50年記念誌」発刊を決定し、編集委員長に任じられた。日記などの記録はなく、特に「沿革」と「足跡」の部分は、記憶と手元にあった数少ない資料に頼らざるを得なかった。作業の途中で、初期に指導を受けた石塚 彰氏(東大OB)に来形をお願いし、安孫子会長とともに往時を語り合い寄稿をお願いした。 (15)〔スポーツマスターズ空手道競技の出場〕(平13〜17年。65〜69歳)空手道競技開始から5年間出場し、準優勝と第3位入賞に止まり不本意であった。情けは人の為ならずというが、「情けを掛けて逆に破れた」「攻めればいいのに、躊躇して不利を招いた」「場外に出そうな相手を中に戻し後に敗れた」「前回は優勝者に敗戦、次の対戦でリベンジした」「6ポイント先取で勝ちなのに5対1で勝利を意識し、逆転で敗れた」など。他に敗戦にならなかったがひどい反則を犯したり、勝負の世界の縮図を全て味わったような気がする。特に決勝戦で敗れた試合は、大会最終試合として中央コートでスポットライトを浴びる中で、意に反し体は硬直し気が焦っていた。これら実戦を経験することから学ぶところは計り知れず、隠さず全てを語り後の指導に活用できた。 (16)〔県連盟会長、東北地区協議会議長就任〕(平14年2月。66歳)「べにばな国体」後に県連盟副会長になり、10年後に第四代会長に就任、時置かずして全日本空手道連盟東北地区協議会の第三代議長に就任した。この二つの役職は、私にとって自分を見つめるに有意義な機会となり、公平な判断力をモットーに人心をまとめ、発展に導く行動を目指した。これらの役職は若すぎてもいけない、この年齢でお引き受けしたのは適切だったと思った。 |
(17)〔県連盟・日本武道協議会優良団体表彰〕(平20年1月。72歳)「べにばな国体」の成功のみならず、山形県連盟の組織活動は結成以来無事に過ごせたと自負しており、東北地方で初めて優良団体表彰を受けるのは当然と思った。田鎖光雄副会長(当時。昭37年人文)とともに授賞式に参列するに当たり、事前に在京の拳友会員有志に知らせていたため、多くの会員が日本武道館に参集し、終わって懇親会となり喜びを分かち合えたのは嬉しかった。 (18)〔中学校武道必修正課に向けて発刊〕(平23年7月。75歳)平成24年4月から中学校において武道が必修正課となるに際し、その前年に県連盟を発行元とし、「中学校武道必修正課にむけて」A4版84頁を著作発刊した。この小著を県内中学校及び教育機関、並びに全空連や関東以北の空手関係団体に送付した。発刊した主旨は、この小誌により空手道の教育の場における有意性と、中学生の授業に馴染みやすい特性を理解してもらい、採用する学校が増えることを期待した。なお、印刷所には電子データを渡し、経費の節減を図った。 |
![]() 【山形県連盟武道優良団体表彰受賞】 |
(19)〔旭日双光章の受賞〕(平25年11月。78歳)拳友会や県連盟などの各位に支えられ、自らの修行と後進への指導、組織を通じて普及振興の活動を行ってきたのに対し、県当局や県体協のご推挙により旭日双光章を受章し、11月12日には、皇居にて天皇陛下にご拝謁が叶い光栄であった。年明けて2月1日に祝賀会を開催していただき、拳友会からも大勢ご出席された。ここに改めて御礼申し上げます。その翌日2日に県連盟総会があって、その席上で会長職を辞任した。支えていただいた多くの皆様に衷心より感謝しております。 おわりに 大塚師範から空手道を教わり、生涯武道を貫くことできたのは本当によかった。それ故に、自分の人生にとって最善の道を歩ませてもらったのは間違いない。若き頃、拙い意見を無遠慮に大塚師範に述べたところ、微笑みながら『それは飛鳥流だよ』と言われたのを懐かしく思い出す。心から親しみを感じ敬愛の念を抱いていた。そんな若造が今、大塚師範が創始された和道会の会長という重職にあるなんて夢想だにしなかったことと言えよう。 38歳で最上郵便局長着任を辞退した時、父も是非にとは言わなかった。「べにばな国体」直後のこと、郷里の最上町町長が部下を同道して再三訪れ、『自分は引退するから、後任町長として帰ってきてほしい。情勢づくりは私が責任をもって行う』と要請された。郷里にも家が残って(今も)おり引き受ける無理ない条件はあったが、これも辞退した。この二つのどちらかを受けていたら、空手界における今の役職はなかったであろう。 17歳で空手道に出会い、これまで69年間の歩みは、様々幸運に恵まれてきたと思う。振り返れば努力の足りなさに後悔しきりだが、努力はこれからもできる。 86歳の高齢であり、会長職を長く続けられるとは思わないが、歴代会長の足跡に恥じない全力傾注は可能に思うため、最後の働き場として心の誓いだけは貫こうと決意している。 おわり |
2022年4月22日 関東、中部支部長 浅間 謙一 1.はじめに このたびは全日本空手道連盟和道会会長にご昇進されましたとの由、誠におめでたく、心よりお祝い申し上げます。
多年に渡り空手界を牽引されました実績と平素からの求道のご精励によるご昇進と拝察いたしております。 偉大なる先達であり日本空手道界の重鎮になられました飛鳥師範に、幸いにも私どもが直接ご指導いただきました2つの局面があり、その逸話を述べさせていただきます。 ひとつは、現役時代の大学空手道部であり、もう一つは山形大学OBから構成される関東、中部支部での活動です。 師範の69年間にわたる空手道人生で、たった1年間あまりの私どもへの直接のご指導でしたが、空手道の凄さ、奥深さ、そして“空手道は教養のひとつ”、を体感させていただきました。教養とは、辞書を引用すると、「人格的な生活を向上させるための知・情・意の修練」と奥深い意味があります。 2.師範の直接のご指導で東北初制覇、全日本ベストエイト @東北総体初制覇 (昭和47年6月) 私たちが3年生の秋の幹部交代のときに、今後師範が直々稽古をつけて、監督も行うとおっしゃられました。師範の齢は36歳であり、米沢の道場にまで出向かれ、私どもレギュラー5人が、まるでぶつかり稽古のように挑みました。 巌のような構えで圧倒され、私たちの渾身から繰り出す技を受け止め、ときにはしなやかにすっと体捌きで眼前から消えるという強靭な肉体と深遠なる奥義に震撼させられました。 翌年、昭和47年の第23回東北地区大学総体空手道競技会が開催され、圧倒的強さで、ぶっちぎりの優勝を飾りました。これは山形大学空手道部史上で初制覇になりました。 A全日本ベストエイト(昭和47年11月) 同年11月に第16回全日本学生選手権大会が開催されました。師範は私どものそばにどっしりと構えられ、大舞台で緊張していましたが、実に心強く戦えました。一回戦は、東北総体優勝でシードになり、2回戦で広島商科大学を5対0で一蹴しております。 強豪慶応大学との対戦となり、やはりもつれ2対2の代表戦になりました。全日本を2連覇した和田選手が育てたチームです。師範は、ここで、正攻法の慶応大学に対し、変則空手の星川君を送り、狙い通りに相手を完全に翻弄し、勝利しました。 その後も勝ち進み、いよいよ準々決勝を迎えましたが、この一戦は師範が綴られた「和道会会長に就任して」の“思い出すことなど”の7項として述べられており、引用します。 「敗因は対戦相手の試合を観戦して勝てると思った私にあって、選手にも言わず語らず雰囲気が伝わり全てが甘くなった。試合とは実力以外の些細な心理状態が大勢を変えてしまう恐ろしさがある」と述懐されております。 師範が看破された通り、私も同じ国立大学であり勝てることを想定し、心ははやって準決勝での九州産業大学との戦いを想定していました。相手校は優勝した九州産業大学に2対2の代表戦まで持ち込んでおり、決して侮ることができないはずでしたが、心の緩みから2対1で敗れ、ベストエイト止まりになりました。 |
B東北大会ベストフォーに3チーム(昭和48年5月) 私たちのチームが、ようやく後輩チームを降し優勝して、山形大学の層の厚さを他校に知らしめました。前年度の本大会でも、山形大AとBチームが決勝で競っておりました。優勝した直後に師範とともに撮られた写真です。 |
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3.関東、中部支部へのご指導 @関東、中部支部の発足 関東、中部支部は、1999年6月に発足され、24年の歴史があり、130人の会員を有します。浅草ビューホテルでの発足式には、飛鳥師範自らご足労いただき、祝辞をいただきました。それを機に現役選手との交流を活発にして、会員相互の融和と親睦を図っております。 |
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A月例稽古と合宿講習会参加 当支部の活動の特徴は、2012年3月より開始しましたOBによる新宿の武道場で行う月例稽古です。平均参加年齢は65歳で11年間も続いております。 |
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当支部では、飛鳥師範が空手の深遠な奥義をお教えする合宿講習会にも参加しております。師範は強靭な体を保ちながらも、身のこなしが信じ難いほどしなやかで速く、齢が全く信じられませんでした。 “武道空手”を念頭に置き、周到に用意されたレジメに従い、暗黙知を科学的な形式知に見直し、ご指導が行なわれるものです。これは、月例稽古の場でも学びとっており、師範のご承諾をいただき、関東中部支部のホームページにも掲載しております。 |
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4. おわりに 和道会空手の精神である「武の業は 宇宙の如く 無限にて 業に極致は なきものと知れ」を、自ら体現されておられることに畏怖の念です。 昨年8月に私は、関東、中部支部長就任のご挨拶をさせていただきましたが、コロナ禍でも生涯武道を標榜され、生身の求道者としての連日の厳しい修行に取り組まれるお姿を拝読し、感激の至りでした。 日本空手道界の重鎮として、今後とも牽引されご活躍されることをお祈り申し上げます。 |